朝、起きるとテレビを点ける。
Eテレで写真現像をしているひとが映っている。
犬の白黒写真が飛び込んできて、見入ってしまう。
父が下町でDPE屋を営んでいたので、子どものころから写真雑誌を見てきた。
好きな写真は切り取ってスクラップを作っていた。
いまはもうないが、一部覚えている。
ウッド・ストックのヒッピーや、チェコの戦車と金髪青年、木に背中をもたれてうつむく若い女性と彼女に向かって体育座りをしている若い男性のやせた後ろ姿、バイク用のブーツをはいていた。
彼もうつむいている。
この写真がとてもすきっだった。
このふたりが自分自身や自分の知り合いであるかのように感じた。
場所は渋谷パルコとある。
行ってみよう、
決めてから、テレビで見て出かけて行ってがっかりしたことを思い出しておよび腰になる。
大きな絵の前で「鳥肌がたつ」と自分の両腕をさすっていた女優さんの涙に引っぱられて行った展覧会。
姜尚中さんが絶賛していた犬島に引かれてわざわざ行った四国芸術フェス。
どれもぴんとこなかった。
テレビで肥らされる情報と、太った情報に慣れた自分の目。
渋谷パルコ8階イベントスペース「ほぼ日曜日」は、とても小さなギャラリーである。
いやいやすごい写真だった。
被写体とカメラを向けるものとのあいだにあるべき遮るものがない。
被写体と写真家のあいだにあるはずのレンズのプレッシャーがない。
写真家の目が透明なのだ。
撮るものと撮られるものあいだの圧が消え、見るものにすさまじいリアル感がたちのぼる。
小学校の少女の写真。
これは私だ。
この少女の立つ空間。
日の当たる空間と暗闇。
この暗闇は私の闇であり、日が当たっている空間は私の空間である。
海を背景に、口に手をあてて笑っている青年の写真を見て、おもわず泣きそうになった。
この視線。
この眼差しを持つ写真家の人肌のぬくもりがじかに伝わってきて胸が苦しくなる。
牛腸の写真を、この写真展のために根気よく再現する写真家。
牛腸氏の目をしりつくした友人。
ひとは、こういうことができるのだ。